山頭火で徒然・・・

山頭火で徒然・・・

還暦ってどういう意味かご存知ですか?
おじいちゃんが還暦に、また自分が還暦になっていても知りませんよね。

今回はそんなお話・・・

 


暦には 「10干」 と 「12支」 があり組み合わせは
干支(えと)といって60通り。60年で一回りします。
例えば今年は甲午(きのえうま)の年。
その60種の2年を一組にして30種の 「納音(けっちん)」 
が作られています。

 

ということで、この山頭火というものも、そのなかの一つになります。
でも昔の人は面白いこと考えますよね。

 

暦のうえでは自分が0歳の時にもう一度、戻る。
つまりは新しき人生をもう一度歩むということです。

いま平均年齢80歳を大きく超えてくる世の中になりました。

この60歳から80歳までと0歳から60歳まで、使える時間は同じような気がします。

 

若いときは時間もお金もなく、また家族のため・子供のためと一生懸命働いてビジネスに必死でなかなか自分の余暇なども取れないと思います。

 

一方で60歳超えたら、時間も余裕もあるが身体が思うように動かないなどあると。
そうすると人生プラスマイナス0と考えると、この60歳からの人生をどう豊かに生きるかが大切になってくるんでしょうね。

 

明日があるさ
https://www.bing.com/videos/search?q=%e6%98%8e%e6%97%a5+%e3%81%8c+%e3%81%82%e3%82%8b+%e3%81%95&qpvt=%e6%98%8e%e6%97%a5+%e3%81%8c+%e3%81%82%e3%82%8b+%e3%81%95&view=detail&mid=C53493CADAEAB2C3269FC53493CADAEAB2C3269F&&FORM=VRDGAR

 

ゆうきのしるし
https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%8b%87%e6%b0%97%e3%81%ae%e3%81%97%e3%82%8b%e3%81%97&&view=detail&mid=E9BC594F48A92023606DE9BC594F48A92023606D&&FORM=VRDGAR

 

先日、北野武さんがTVで「これからは落語の時代がくる」なんておっしゃっていましたが、もしかすると落語の時代が本当に来るかもしれません。

 

また落語だけでなく、浪曲や講釈・演歌など日本文化のなかには、思いっきりなにか身体を動かさないとダメなものというよりは頭を動かすものもたくさん存在しています。

 

もしかすると、これが来るこれからの世界的な高齢化の潮流を日本がリードしていくヒントになるかもしれませんね。

 

また山頭火と言えば種田山頭火山頭火というラーメン屋さんが思い浮かぶ方も多いと思いますが、それはまた別のはなしでしたいと思います。

風林火山で徒然・・・

風林火山

 

こちら、戦国時代のファンの方ならこれが出てきた瞬間「御旗楯無も御照覧あれ!」などと言って盛り上がるんですが… あら、そんなことない。。

 

という人も、この言葉は知っていると思います。

 

こちら戦国時代の武田信玄が旗印として使っていたとされることばです。

 

辞書より
武田信玄の軍旗に書かれた「孫子」の句「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」の略。また、その軍旗の称。

 

ということですが、実は本当に書いていたかどうかは諸説ありましてよくわかっておりません。

 

しかしながら武田信玄は非常に孫子を読み込んでいたということですので、いずれにせよ知っていた可能性は非常に高いと思います。

 

こちら、実は省略されていまして『孫子』・軍争篇第七から引用したということです。

 

ちなみに全文は、
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)

とのことです。

 

これ、前文のほうがいまの社会に合っているように感じます

 

どういうことかと言いますと、
林のように静かにというのは行動
知られることは陰のようには情報戦


と捉えると、情報も出さない、アンダーグラウンドに進めること。

そして行動もひそかに行うと。

 

いまのご時世、SNSが流行りまくってどこで誰がどんな情報でそんな友人がいるかも明確にされてしまう世の中です。

 

これで「陰」のように知られずにコトを進めることは非常に難しいと思います。

でもこれが出来ると凄く価値がある行動につながると思います。

 

また同様が火と雷霆にも言えるのではないでしょうか?

火のように侵略というのを市場規模・マーケットシェア
動くことを雷霆というのを実際の行動

 

とするとビジネスにおいて競合よりも如何に早くマーケットシェアを取ってNO1になるか

 

同様にシェアを取るために迅速に実の行動をするというもの大事なんだと。

少しニュアンスが違うような気がしています。

 

いまの戦国時代、これはビジネスの世界なんだと思います。
そして、ベンチャーを「悪人」や「足軽対象」「地元豪族の親分」ぐらいだということだと思います。

 

そんな人間たちが大名と戦うのは如何に「ばれずに」「電撃的に」行動するかが非常に大事で、知らない間に大きくなっていて一気にとってしまう。

 

これを実行動と戦略で考えるとwikiに近い文章が載っていました。

 

実行動

ロシア陸軍は伝統的に奇襲を重視しており、作戦も奇襲を前提とした上で組み立てることが多い。日本では、桶狭間の戦いにおける織田信長軍のもの、一ノ谷の戦い源義経のそれが著名となっている(桶狭間については奇襲の意図は無かったという説もあるが、奇襲という認識が一般的である)。第二次世界大戦でドイツ陸軍が行った電撃戦も、伝統的な塹壕戦の概念を新構想と速度で打ち破ったものであり、広い意味での奇襲の1つと言える。

 

戦術的な奇襲
戦術的な奇襲は、小規模な部隊によって行われる戦闘行為である。作戦的な行動における陽動や伏兵などもこれに含まれる。
ベトナム戦争において、北ベトナム軍は積極的にゲリラ戦を行い戦力と士気を削いだ。また、第二次世界大戦でドイツ軍の北アフリカ戦線を指揮したエルヴィン・ロンメルは奇襲が巧みであり、しばしば「砂漠の狐」と称された。

 

・・・いまのビジネスでも役立つ示唆だと思います。

 

風林火山がより必要に、そしてより難しくなっている時代なんだと思います。
だからこそ、この言葉をもう一度見つめなおすとよいかもしれないですね。

 

また戦国大名はほかにも企業理念のような旗印を持っています。
例えば石田三成の「大一大万大吉」、徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」など

 

これ一個一個調べて意味を調べても面白いかもしれませんね。

香を引くで徒然・・・

■香を引く
これ、日本文化でもなんでもないという方もおられるかもしれません。


こちら正確には「名人に香を引いて勝つ」将棋の升田幸三先生のことばです。

 

この将棋の先生、実家の家を出るときにこういう決意をもって出ていったようです。
くわしくエピソードを書くと、その説明だけで大変な量になってしまいます。

 

でも、名人というのは将棋界でNO1

 

それもその人に「香を駒落ち」として使わず勝つには、大変な条件が揃わないと出来ないことでありますし、そのハンディキャップ戦を勝つというのは並大抵ではありません。

 

これをやったのが、升田幸三という人なわけです。
この人、昔から大ファンでしてどうしても書きたくて無理やり入れました。

 

なにせエピソードが面白い。

升田幸三 - Wikipedia

 

むかしは将棋は「人生・生きざま」と言われていた時代の人なんで、羽生さんよりもずっと前の人ですが、人生をみていても生きざまが見えるようなまさに【たたき上げの将棋師】という感じがします。

 

この升田先生、実はいま話題の加藤一二三先生が後継者であるとされているが、加藤先生だけでなく、将棋界のなかでも非常にファンが多い人のようで羽生善治さんも、将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べているように非常に人気の高い方です。

 

なんとも人間臭い方です。

 

いまAIの領域がすごく進化していて、将棋でもとうとう名人にAIが勝ってしまうというような時代になりました。

 

これはこれで面白いんですが、もしかすると升田先生が生きていた時代のほうが将棋も面白かったかもしれませんね。

 

思いますのが、この頃「人間くささ」ということばをあまり聞かなくなったような気がします。

 

効率化や費用対効果など目に見えるもののほうが価値があるように思われがちですが、こういうなにか人間くさいことやあえて「たっぷり時間をとる」ようなこと。

 

 

最善手ではないけど、あえて無謀なことや無駄なことやってみることも人生で大切なことかもしれません。

 

なんか升田先生のたたずまいを見て、そう感じました。
わたしも見てくれは不細工ですが「生きざま」はかっこよくいけたらいいな、こう思いました。

福の神で徒然・・・

■福の神
今回は福の神をテーマにお話したいと思います。
この福の神をテーマにすると実に面白い!

 

これだけで1セミナー開くことができます笑

この福の神、日本の辞書で引っ張ると

 

人間に幸福や利益をもたらす神。七福神など。ふくじん。

とでます。

 

この七福神を調べていくだけで、30個ぐらいの講座ができそうです。
*やっぱりこれ、どこかでやりたいと思います。

 

これを狂言から見ると
狂言の一。脇狂言
大蔵,和泉両流にある。福の神の神前で恒例の年取りをしようと,2人の参詣人が連れ立って出かける。豆をまいて囃すところへ,明るい大きな笑い声をあげて福の神が出現する。福の神は両人の参詣を喜び,神酒(みき)を所望したうえで,早起き,慈悲,夫婦和合,隣人愛の徳を説き,自分のような福の神には神酒や供え物をたっぷりせよと,謡い舞い,また朗らかに笑って退場する。登場は参詣人2人と福の神の3人で,福の神がシテ

 

となります。

 

またこれも調べると、ナポレオンヒルや強運の法則など啓蒙書として名高い本と同じような部分があったりして非常に面白い。
日本の物語(寓話)とも絡ませられます。

 

 

また、最後にギリシャからも読み解くと福の神は

ギリシアアリストファネスの喜劇。前 388年上演。現存するアリストファネスの最後の作品。かつての自由奔放な攻撃と批判に満ちた古喜劇の精神が影をひそめて平俗な滑稽に堕し,合唱隊の役割も無に等しく,古喜劇から中喜劇への移行を示す。

ということで、しっかりギリシャにも喜劇としてある。

 

これがまた古喜劇から中期劇への移行を示すということで、歴史的に見ても面白い。

これ、一個一個書いているときりがないですが、今回なにがいいたいかというと「人の見方によってものごとの意味が大きく変わる」ということです。
(*福の神を見たい人は、ぜひセミナーにお越しください笑)

これ、もし狂言の先生とギリシャの劇作家、さらに一般人が「ふくのかみ」をテーマに話するとどうなるでしょうか?

 

うまくいけばアンジャッシュがやっているような「同じだけどみんなのミスコミュニケーションで笑いが起きる」落語やコントのようなことになるだろうと思われます。

 

これ、普通の社会でもよく起こることです。
このコミュニケーションや認識・定義の違いで人が辞めることだってあるといっても過言ではないと思います。

 

ちょっと飛躍しますが、おなじ福の神という言葉でもこれだけ違うんです。

 

他にもインドではもしかすると別の神がいるかもしれませんし(例えばガネーシャなどは福の神のひとつかもしれません)、他の文化圏では別の「ふくの神」がいるやもしれません。

 

そういえば、そんな他の神様たちが交流するという落語もありました。
こちら「茶漬け閻魔」です。

https://www.youtube.com/watch?v=W0yH3QcLfFU

マニアックすぎるって…?

いやいや、たまには今日ぐらいはええでっしゃろ。

 

というわけで、こういうように神様でも「極楽の定義」は違うわけですから我々凡人も襟を正して「コミュニケーションギャップ」に努めたいと思っております。

 

以上、今回はお~わ~り~!!

儲けるで徒然・・・

■儲ける


日本語と漢字って本当によくできていると思います。
この儲けるという言葉も、またひとつ。

 

これの意味は

〔「設ける」と同源〕
① (思いがけず)利益を得る。とくをする。 「株で-・ける」
② 子供を得る。 「三人の子を-・ける」
③ 人と縁を結ぶ。身にもつ。 「かぎりなくおもひながら妻を-・けてけり/大和 149」
④ 手に入れる。自分のものとする。 「正直にては良き馬は-・くまじかりけり/盛衰記 34」
⑤ 身に受ける。 「財を失ひ病を-・く/徒然 175」

 

ということでして、もうけるということです。

また設けると同じ源からきているようです。
これも面白いですね!

 

やまとことばでは元々、なにかを作ることとお金を生み出すことが同義だったということです。

 

またこれは漢字を見ると、「信じるもの」と書きます。
こちら信じるものを作るときっと利益を得たり、身につくということなんでしょう。

 

また、辞書によると(思いもかけず)という記述があります。
これ、ハプニングぐらい「もうける」ということは難しいということなんだと理解しました。

 

本当に企業経営しているとわかります。

儲けるというのは難しい。
1年以内に30%を超える企業が辞めているということでも、そのすさまじさが見て取れると思います。

 

また実体験でも思います。
そうそうニーズがあるものを見つられるものではないですし、大手企業やそれ以外のマーケットを見つけるなんて、奇跡に近いとお思います。
また、お金が入る縁をもらえるのも狙いにいったものは、ほとんどなく「おもいがけず」が非常に多いです。

 

そういうことも意味のなかにあるんでしょうね。

自分や会社を「信じる人」を作りましょう!

守破離で徒然・・・

守破離(能・狂言
守破離で徒然・・・

 

守破離」こちらも聞いた事あります。実際に企業セミナーでもよく出てきますが、うまく説明できません。
これ一体何なんでしょうか?

 

剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

 

ここまではよく出てくる意味ですよね。
じゃあ、なんなんだと。

 

以下にヒントがあるように思います。

【真行草】より
…徹底した稽古は真の格を体得する〈守格〉であるが,名人となれば形式をくずし自由に演じ〈破格〉をめざすべきだ,と能楽などで論じている。同義に近い言葉として〈守破離〉がある。【熊倉 功夫

なるほど、要はプロになればなるほど普通の手ではないところを見るということなんでしょうか?

 

これ、ふたつ思い浮かびました!
ひとつは将棋の羽生さん
https://www.youtube.com/watch?v=J27j-kCcMCg
もうひとりはピカソ
www.art-library.com/picasso/

 

こちら、どちらも非常に定石をしって基礎があったうえに新しい手をうちこんでカタチにしています。

そして、この「斬新さ」の前には相当な数・量を出しているということです。

 

ちなみに俳句の世界でも小林一茶は約22,000句を書いているし、ピカソの絵を描いた数は7万作と言われています。

 

普通の人はこれだけ書かないということなんでしょう。
つまりこれだけの量の積み重ねの上にいくついたのが「ゲルニカ」であり「伝説の五二銀」という羽生さんの一手なんでしょう。

 

つまり守格があってこその破格なんだと、そういうことなんだと思います。
我々も、もっと量をこなさないとと思います。

 

私もサラリーマン金太郎の時に上司に「量は質に転嫁する」という言葉を信じてやっておりましたら、おのずとできるようになりました。

 

これからは私も守破離、これを意識していきたいと思います。

幽玄で徒然・・・

さあ、これも難しい言葉です。
「幽玄」聞いたことはあるけど、説明できません。

まず、語源ですが辞書からは

幽玄の語の用例は中国の後漢(ごかん)にさかのぼるが、注目されるのは以後の漢訳仏典の用法で、隋(ずい)の智(ちぎ)ぎはこの語を「微妙難測(みみょうにしてはかりがたし)」(金剛般若経疏(こんごうはんにゃきょうそ))、唐の法蔵は「甚深(じんじん)」(華厳経(けごんぎょう)探玄記)と解説している。いずれも、仏法の深遠でたやすくは理解できない意味であるが、日本でも平安末期までの用法は仏典に限らず、およそこの原義を離れない。

 

とのこと。

 

なるほど、もともと仏教用語で中国から来たことばなんだと認識。
中国からきている文化は非常に多いんですね。

 

むしろ中国と関係性が複雑になる前に、特に文化面では非常に親和性があったということだと思います。
中国と日本で文化交流できるようにできれば①政治(外交) ②経済 ③文化 という交流をしっかりやりたいと(既にやっていますが、自分たちの近くでも)面白いと思います。

 

とずれましたが、意味としては

 

芸術論用語で,美的理念の一つ。本来中国の典籍に見出される語で,原義は老荘思想や仏教の教義などが深遠でうかがい知ることができないことを意味した。

 

[名・形動]《「幽」はかすか、「玄」は奥深い道理の意》
1 物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。「幽玄の美」「幽玄な(の)世界」
2 趣きが深く、高尚で優美なこと。また、そのさま。
「詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは―の道、君臣これを重くす」〈徒然・一二二〉
3 気品があり、優雅なこと。また、そのさま。
「内裏の御ことは―にてやさやさとのみ思ひならへる人の云なるべし」〈愚管抄・四〉
4 中古の「もののあはれ」を受け継ぐ、中世の文学・芸能の美的理念の一。言葉に表れない、深くほのかな余情の美をいう。
㋐和歌では、言外に感じられる王朝的な上品で優しくもの柔らかな情趣をいう。
連歌では、艶でほのかな、言葉に表されない感覚的な境地をさしていう。後に、ものさびた閑寂な余情をもいうようになった。
能楽では、初め美しく柔和な風情をさしていったが、後、静寂で枯淡な風情をもいうようになった。

㋐ 俊成の歌論では、静寂で奥深く神秘的な感動・情趣。
㋑ 正徹の歌論、世阿弥能楽論では、優雅・妖艶な情趣。
㋒ 為家の歌論、心敬の連歌論、禅竹の能楽論では、枯淡にして心の深い境地。ひえさびた美。

 

とあります。


要は「芸術の美的概念で重要な内容」ということです。

またこの幽玄というものは、時代や言う人や芸術によって定義が少し変わるということです。

 

これ、非常に面白いですよね。

なにを思ったかというと、いまの「美しさ」の概念も人によってや時代によって違うということなんだと思います。

 

これそういや資生堂がやっていたなと思い、早速調べてみました。

hma.shiseidogroup.jp/info/p20161222_5392/


なるほど、これ要は「定義」をみんなで考えていくんですよね。

 

哲学や宗教も同じで「サンデルの正義論」なんだと思います。
つまり時代や人が定義を考えて、それぞれが考えているでしょう。

でも大まかは変わらず、つまり「原義」はあるんでしょう。
その周りをぐるぐる回る、正に「輪廻する」ことなんでしょう。

 

だから、こういう議論をする際には「歴史」と「原義」を知っていないと、とんでもないことになる可能性も秘めているんでしょうね。

 

今日はどちらかというと言葉の内容というより、その定義づけが面白かったです。

*意味に関してはやっぱり「幽玄」については書く人の主張を見ないとなんとも言えないですね。